春の風を待つあの花のように

(※映画本編のネタバレを含みます)

 

 

2021年1月29日金曜日。

映画「花束みたいな恋をした」を観に行った。

 

 

 


初めての一人映画に心を弾ませて、感染対策を万全にと思って劇場までは歩いて行った。

 

気舞台挨拶付きの中継のど真ん中の席。

我ながら結構気合を入れて席を予約した。

 

 


舞台挨拶生中継では、何度も「このご時世に劇場に足を運んでくださりありがとうございます」という監督さんやキャストの方々の言葉に、改めて自分が今健康で生きられていることの有り難みを感じる。

 

 

かなり延期に延期を重ねた公開だったみたいで、「やっと公開できた」という言葉も聞いた気がする。

 


その後には菅田将暉さんや有村架純さんの個性や作品の制作背景、制作の上での苦労や裏話、フィルムカメラでの思い出の話が続いた。

 


脚本家さんが仰っていた、

「本作品を創る上で注意したこと」が「変に傍観するのではなく、物語をフラットな視点で作る」という信念が、

 

麦くんと絹ちゃんがハマっていたサブカルコンテンツへの理解から物語られていた。

 

 


「この話は麦くんと絹ちゃんのお話ではあるけど、皆さんのお話かもしれません」という監督さんの言葉の意味はこの後知ることになる。

 

 

 

 


ストーリー自体は、ありふれたラブストーリーの構成のそれだった。

 

 

出会い、じわじわと恋は盛り上がり、付き合って恋は絶頂を迎える。

 

 

その中で就職や周りの環境の変化もあって少しずつすれ違い、別れを迎える。

 

 

シンプルでよくありそうな話なはずなのに、なのに。とても感情移入してしまい、1人で観てるにも関わらず号泣してしまった。

 

 

終わってから周りを見渡すと私と同年代より上のお客さんと女子高生と思われるお客さんでかなり受け取り方が違うのかなっていう感じがした。

 

 

「年齢を問わず、誰かを本気で大切に想ったり失った人にはかなり来るものがある」という感想をどこかで見かけたから、

 

そういうのも関係しているのかもしれない。

 

 

 

 


本編中の気持ちの描写が素直でまっすぐである事と裏腹に、それぞれの視点で同じ事象を描くところが特に印象的で。

 

 

初めのカフェで偶々同じカップルがイヤホンを半分ずつで聴いているのを見て立ち上がったシーンから、この2人は同じ事象をそれぞれの視点で見ている。

 

 

つまり、「2人の恋」ではなく「それぞれの恋」の模様を見る様に設計されている。

 

 

 

それは出会ってから付き合って恋の盛りを迎えるまではほぼ一致している。

 

嬉しい、楽しい、大好きだと2人とも目線からも行動からも伝わるし、想いも通っていることが伝わってくる。

 

 

その描写は一見微笑ましいものだが、すれ違い始めてからの描写との対比が一気に観ている者を苦しい気持ちにさせる。

 

 

 

麦くんの就職や先輩の死、絹ちゃんの転職など沢山のターニングポイントを経る内に、

 

2人とも何が大切なのかを見失ってしまった。

 

 

私自身は新卒での就活に臨んだ人間だからか

 

「あの時もう少し向き合っていればよかったのではないか」「恋愛にうつつを抜かし過ぎたのではないか」と思ったけど、

 

 

「2人とも就活をしていればすれ違うのはもっと早かったかもしれない」という友達の考察を聞いて目から鱗が落ちた。

 

 

そもそも行動が心情を変えたのではなく、心情・個性がそれぞれを突き動かし結果的に恋を終わりに導いてしまったのだ。

 

 

「すれ違い」とはよく言ったもので、気持ちが先なのか行動が先なのか恋愛の渦中にいる時は分からないようになっている。

 


麦くんが別れようと思っていた深夜のファミレスで「結婚しよう」と言ったのもそういったことが影響しているのかな、と思ったりした。

 

 

 

映画だから出来ることだけど、

 

そのタイミングで2人が1番お互いの存在に対してポジティブな感情だけを持ち合わせていた頃を彷彿とさせる初々しいカップルの会話を聞いてしまったことはなんというか、ずるかった。

 

 

 

取り返しのつかない時間の流れの赴くまま、恋は静かに終わってしまった。

 

 


作品中に使われていた「恋の賞味期限」という表現。

恋という言葉は日本語に固有のものであると認識している。

 

 

それは同時に概念も独自のものであると物語っている。

 

 

他の国の言語では「愛」という意味の言葉はあっても、「恋」と定義される言葉はあまりないように思える。

 

 

 

それは、恋が非常に儚く脆く、日本人に特有の感情であることを物語っている。

 

 

 

夢中になって、他のライフイベントや感情が霞んでしまうこともある。

 

 

様々な形があれど恋はそういうものであるという共通認識が、この国の人は傾向として多少なりともあるのだろう。

 

 

それを作品に昇華させるというか、一種の「エンタメコンテンツ」にしてしまうところになんとも言えないすごさを感じて、こわいとまで思った。

 


この作品の表題は「花束みたいな恋をした」

 

恋を「する」ではなく「した」とされているのは麦くんと絹ちゃんが恋を経て成長「した」ことを暗喩しているようにも感じられた。

 

私自身も学生の頃は恋は「落ちる」ものであったように感じる。

 

 

 

その思い出を大切にしつつ、これからは愛に繋がりそうな恋をしたいなとぼんやりと、だけど強く思った。

 

沢山笑ったし、泣いたこれまでの恋を終わらせてきた私なら、それが出来る気がしている。映画の影響であることは間違いなく否めないけど。

 


麦くんと絹ちゃんはそれぞれに恋を終わらせたけど、その終わりが悲しいだけじゃなかったように。

 


まさに花束を手向けるように、これを観た私なら。

 

 

学生としてのこれまでの生活にありがとうの気持ちを込めて区切りをつけられたような気がした。

 

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